2008年5月30日金曜日

誰にでもできる穢れを祓う「清めの方法」

 人から古い用具類をもらったり、アンティークショップで古物や古着などを買った際に、前の所有者の気や思念が気になったりする場合に自分ですぐにできる「清めの方法」がある。

 テレビを見ていると、霊能者や徐霊者が、ついた邪霊を祓(はら)う際の応急措置として息をフッ、フッ、フッと3度吹きかけているのを見たことがある人もいると思うが、あの時に言っている言葉もこれ。

 簡単なので覚えておくと便利。

 「神火清明、神水清明、神風清明」(しんかせいめい、しんすいせいめい、しんぷうせいめい)
 と呪文を唱え、清めたいものに対して、フッ、フッ、フッと3回勢いよく息を吹きかければよい。

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2008年5月29日木曜日

今日の「すばらしき言葉」

 夫婦でも恋人同士でも親友でも、人間関係の難しさ(厳密には難しく感じてしまうこと)に直面することが折々である。

 次の言葉は、「実践引き寄せの法則(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス著)の中で見えざる全知のマスター・エイブラハムが「離婚することになり、途方に暮れている女性」からの相談に対して、パートナーとの人間関係の本来のあり方として「こう思考できるようにできませんか」とアドバイスした言葉である。


 <本文抜粋>
 「わたしはあなたと一緒にいるのが好きだし、今あなたのそばにいて、自分がとても素晴らしい存在だと感じている。
 ところで言っておくけれど、わたしはいつだって自分の感じ方には自分で全責任をとれる。
 わたしはなんについてでも自分の考え方の方向を決めて、『本当の自分』と調和し、明るく前向きな気持ちでいる力がある。
 だから、あなたは自分が好きなように自由に生きればいいし、わたしはそれでかまわない。
 わたしはあなたと一緒に生きて、愛し合うことが好きだ。でも、わたしの幸福はわたしの責任だ」



 「人を幸せにできなかったとして」、または「人に幸せにしてもらおうとして」苦しむ。

 でも、幸せは人からあてがわれるものでもないし、人に求めるものでもない。

 人は自らの思考と言葉で幸せになる存在なのだ。

 そして幸せになるための条件はそのすべてが与えられている。

 自分のために、そしてパートナーのためにも時折、思い出したい言葉である。

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2008年5月28日水曜日

中村天風「積極的な思考、言葉で幸福が叶う」


 「天風先生座談」宇野千代著。
 先日、友人に薦めてもらった1冊。全文1人称で書かれた講演録である。
 中村天風は、安岡正篤と並び称される人生哲学の“巨人”だ。
 名前は良く聞き知っていたが、本としてまとめられたものを読むのは今回が初めてである。

 経歴は、1876年東京生まれ。日露戦争で軍事偵察員として活躍。その後、当時、死病であった肺結核を患い欧米を遍歴するも治療のための答えは得られず、失意の帰国途中に立ち寄ったインドでヨガ聖者と出会う。弟子として2年半の修行で病を克服し、帰国後「心身統一法」を説き、多くの著名人から支持され“天風哲学”として広く世間に認められる。96年没。享年92歳。

 「天風先生座談」読後の感想は、20世紀前半という時代に、しかも日本に「この世の仕組み」について察知し、わかりやすく語ってくれるる人物が存在したということが無性にうれしくなった。

 僕自身はこのタイミングでこの著書を読めたことに深く感謝した。なぜなら数年前なら間違いなく理解は上辺だけにとどまったと確信するから。


 本書の中で<人はなぜこの世に生まれてきたのか>について、天風はこう言う。
 「人間はこの世の中に、うまいものを食いに来たんでもなけりゃ、好い着物を着に来たんでもなけりゃ、恋をしに来たんでもねェんだ。それは生きる場合の、ローヤルロードの道筋にある出来事で、この世に万物の霊長として生れ来しゆえんのものは、エレベーション(高める)という、造物主の目的に順応するためだ」


 また、<人が心身ともに健康に生きていくために気をつけること>として、
 「消極的な感情、情念を持たないようにすること」と説く。
 それは
 ①怒ること
 ②悲観すること
 ③やたらと理由なくして恐れること
 ④憎むこと
 ⑤恨むこと
 ⑥焼きもちを焼くこと
 次に、「煩悶(はんもん)」「苦悩」「憂愁」
 これらのいずれかが心の中に起これば、たちまち血液とリンパの弱アルカリ性が破壊されはじめ、心身の調和が崩れていくのだそうだ。


 そして、欧米の著名な医者にかかっても治らなかった、当時、死病といわれた肺結核がこの聖人のアドバイスのおかげで完治する。
 聖人は天風に、「心が健康に、運命をよき状態に作り直していく方法であり、(病い、苦しみに)捲きこまれない方法として、このようなアドバイスを贈る。
 「無理でもいいから、言って見ろ。俺がお前に、ハウ、ドュウユウ ドューときいたら、どんなことがあっても、アイ、アム、クワイトウェル(私は絶好調です)と言え」と。

 また、「あとは言葉に気をつけてください。気をつけろ、というのは、絶対に消極的な意思表示をする言葉を口にしないように。参った、助けてくれ、どうにもならない、苦しい、痛い、という言葉を口に出さないようにすることだ」とも言っている。

 そして、感謝に関することについても
 「一番いいことは、もしも自分の望むものが自分のものにならなかったら、現在持っているものを価値高く感謝して、それを自分のものにしてゆきなさい。
 こういう心がけで自分の人生に生きてゆくと、心の中の煩(わずら)いというものがなくなっちまいます。 何事に対しても、現在感謝。ああ、有難い。何に対しても現在感謝」

 宇野千代は「あとがき」で、天風から言われた次の言葉を紹介している。

 「人間は何事も自分の考えた通りになる。自分の自分に与えた暗示の通りになる。」

 折々で読み返したい珠玉の1冊である。

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2008年5月27日火曜日

古神道秘術「お金がどんどん入ってくる財布と巡り会う法」

 古神道の秘術の中にも「お金がどんどん入ってくる財布」と巡り会う方法があると教わったので、これは「おもしろい!」と思わずにんまり。
 いつものように難しい方法ではないので、ご紹介しておく。

 方法は至って簡単。

 「甲子(きのえね)の日に財布を買うこと(もしくはつくること)」。

 甲子とは干支(かんし)60通りの中で一番始めに当たる「物事の原点の日」。
 この日を持って新しい財布を手にすると、それまでの苦しい状況ややりくりに困った内実を消し去り、豊かなお金の巡りへと新たな導きがあるのだそうだ。

 ちなみに、近く訪れる「甲子の日」を調べてみると、
 7月23日
 9月21日
 である。
 僕は情報を含めて、自分ができる範囲のことなら素直に応じていきたいと思っているので、「善は急げ」で7月23日で手帳に印をつけておいた。

 財布の値段は高い安いはまったく関係ない。
 その他に財布の選び方としては、入れたお金を曲げる財布はNGなので「平財布」がお薦め。小銭は小銭入れとして別にした方が良い選択とのアドバイスを以前受けたことがあるので参考までに。

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再び地震予知情報

 再び福岡の先生からの地震予知情報を得る。
 今年9月11日~13日の間に静岡県。もしくは前回もそうであったように中国で起こると日本ではない。
 そして、これは前にも言われ大変気になっている大阪での地震予知。日付は来年の1月17日。
 ないならないにこしたことはない。しかし自然が起こすものを止める手だてはほぼない。地震による被害を最小限に食い止める知恵が必要だ。
 阪神大震災でも学んだが、それは被災後の迅速な対応と日頃の備え、そして人々の心の平穏である。

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2008年5月25日日曜日

三浦綾子「忘れえぬ言葉」 "感謝婦人”の心にしみるひと言


 三浦綾子さんのエッセイ「忘れえぬ言葉」の中で“感謝婦人”と呼ばれている女性が紹介されている。
 激痛を伴う脊髄(せきずい)カリエスという病と長年にわたって向き合ってきた三浦さんがこの”感謝婦人”の言葉を聞いたことで自らの病と改めて向き合うことになり、勇気づけられていく様が描かれた一遍である。
 “感謝婦人”という愛称を贈られた女性だけあって、その「感謝の言葉」がいかなるものなのか僕にはまったく予想がつかなかった。
 そして、その言葉を知った時は「ほんとにその通りだよなぁ」と心から感服させられた。


<本文から抜粋>
 来る日も来る日も臥(ね)ているだけの私に、母はどれほど心を痛めていた事であろう。私は24歳で発病した。
 ・・・病いは重くなるばかりで脊椎カリエスも併発した。友人達が次々と結婚し、子供を2人3人ともうけても、私だけはただベッドの上に臥ているだけであった。
 そんなある日、母からある婦人の話を聞いた。

 その婦人はいつも、いつも「感謝です」「感謝です」と二言目には感謝の語を発する人であった。自然その顔は、常に喜びにあふれていて誰からも敬愛されていた。
 たまたま、その人の住む地方に長雨が続いた。
 10日、20日と雨は続きいっこうに止む気配はない。
 人々は「困った雨ですね」という言葉を挨拶代わりに交わしていた。
 ・・・そんな最中、一人の人がその「感謝婦人」のことを思った。
 (いくらあの人でもこの長雨ばかりは感謝してはいないだろう)
 そして、彼女に会うなりに言った。
 「なんと長い雨ですこと、困ったものですわね」
 すると

 「長い雨で感謝だと思っています。こんなに長く続く雨が、もし一度にどっと降ってごらんなさい。・・・洪水になって、家も人も、畑も押し流されるに決まっています。神さまはその大雨を長い日数に分けて、こうして毎日少しずつ降らせて下さっております。感謝な事ではございませんか。」と晴れ晴れとした顔で答えた。

 私は長雨に感謝した婦人の心に打たれて、自分の長い病気の事を思った。
 私の病気も長いものであった。・・・
 身動きも出来ないベッドの中に寝返りも出来ず、毎日天井を見るだけの日々であった。・・・一生続く状態かも知れなかった。

 そんな中で聞いた「感謝婦人」の言葉は大きかった。
 彼女の考えを持ってすれば、神は痛みや熱や、倦怠感が短時間にどっと襲うことを許されなかった。10年を超える長い年月に分けて、私はその苦しみを少しずつ味わうことになった。考えてみると、それは誠にありがたいことであった。
 症状が一度に悪化すれば、耐え切れるものではない。
 確かに私は長い病気ではあったが、父母がいた、兄弟がいた、親切な友人達がいた。目も見え、耳も聞こえ、口も利け、手足も動く。
 感謝すべきことはたくさんあった。

 私は人間感謝しようと思えば、それは実に多い事に気がついたのである。



 
 三浦綾子さんは敬虔なキリスト教徒としても有名である。この”感謝婦人”も天理教の熱心な信者だったそうだ。

 生きていく限りは数々の「幸せなこと」「不幸なこと」に遭遇(そうぐう)する。
 でも、この世には「幸」「不幸」はない。
 その人がどう「思考」するかが「幸」「不幸」を決める。
 そのようなことを2600年前に釈迦は言った。
 同じく天才であるイエス・キリストも昨日ここで紹介したような言葉を人々に投げかけたと言われている。

 同じ現象であっても、「言葉」と「思考」が持つ“力”はその人の世界を大きく変える。
 その“力”の一片をわかりやすく見せてくれるこのエッセイと出会えたことに僕は感謝の言葉を贈りたい。

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2008年5月24日土曜日

「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」


 「人間イエスを科学する(アウグスト・クリ著)」を読む。
 タイトルにひかれたが内容は残念ながら期待はずれ。
 でも、人生同様、本との出会いにも偶然はなく、どこかになんらかの意味がある。
 まあそう言いつつも、肝心のところを見落としているのかもしれない。が、それはそれで受け入れていくしかない。
 この本からは、これまで何度か目にしてきたキリストの言葉を改めて読み、考えさせられたことがよかった。感謝、感謝。


 「明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(『マタイの福音書』6:34)
 
 同様の言葉を釈迦(しゃか)も言っている。
 「明日やります」という人は明日になるとまた「明日やります」と言う。
 そうした意味で、人の人生に「明日」はないといえるかもしれない。
 「今日(今)」を十分に生きる。そうしながら日が沈んで、日が昇るとそこには「明日」ではなく「今日」がある。
 それに、好き嫌いは別にして目の前にある課題が自分のとって大切なことらしいのでなおさら「今」なのだろうと思う。


 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
 
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」(『マタイの福音書』5:43,44,46)

 キリストの言葉でもっとも有名な言葉のひとつ。
 僕は後半の言葉に生きる上での玄妙さを感じる。キリストの重要なアドバイスではないかと思う。
 自分を愛してくれる人、褒めてくれる人、都合のいい人を好きになることは誰にでもできる。
 その方がやっぱり楽しい。でも、キリストはそれには「何の報いもないよ」と教えてくれている。
 イヤな人のために、顔も見たくないし、口も聞きたくない人を愛することにこそ「報い」があると言っているのだ。
 それでもそんなイヤな人を“愛する”ことはなかなか難しいの。だから、まずは存在を認める。少し受け入れることにする。心から思ってなくてもそのイヤな人が幸せになりますようにと言葉だけ口にする。そうこうしているとキリストの言う「報い」ってこれなのかなということが起こっていることに気づく。イヤな人のために祈る自分の心が少し豊かになっているのだ。「イヤだと思う自分のことがイヤで、そうじゃなくなっているので、うれしい」って感じも僕は「豊かさ」のひとつだと思う。
 「イヤな人」が現れたら、「『報い貯金』のチャンス!」と自分に言い聞かせるのもひとつの手からもしれない。

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2008年5月23日金曜日

「十字の秘術」、よく効きます

 「十字の秘術」と呼ばれる呪文がある。
 古神道(陰陽道ともいわれている)として古くから我が国に伝わるおまじないのひとつであるが、今はほとんど伝承されずに一部の人のみが知っているにすぎない。

 先日、ここで「願いを叶える秘法(呪文)」として諏訪大社の建御名方神(たけみなかたのかみ)の秘法をご紹介したところ、「願いが叶った」という連絡を数人の知人から続々といただいた。
 さすがは、「たけみなかたのかみ」である。
 願いごとは良きことも悪しきことも叶うはずなので取扱い注意である。
 つけ加えておくと、人を悪くする願い事は自分への強烈な“返し”がしばらくすると必ずあるので、やめたほうがいい。


 「十字の秘術」のすべてを僕が知っているわけではないが、そのうちのいくつかをご紹介する。とても簡単でよく効くので覚えておくと便利だと思う。

 <人前であがらない、動じないようになる>
 左の掌(てのひら)に「天」という字を指で書いて、心の中で「日」「月」の2字を念じる。
 誰が、何が現れようと心が動じない。
 (先日、永田町で森義朗元総理と仕事の関係者4人で会った際に試してみたが、効果を完璧。隣の社長さんはものすごく緊張したらしいので事前に教えてあげればよかったと少し反省)

 <食当たり、食中毒にならないようにする>
 左の掌に「命」という字を空書きし、心の中で「日」「月」の2字を念じる。飲食やお酒を飲むときに毒を払う。
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2008年5月22日木曜日

「欲しいもの」がなくても人はとても幸せですが、「必要なもの」がないと人は幸せではありません

 
 スマナサーラさんの「『「やさしい』って、どういうこと?」の中でもうひとつ心に残る話があった。

 それは、

 「『欲しいもの』がなくても人はとても幸せですが、『必要なもの』がないと人は幸せではありません」

 という言葉である。

 先日、新宿公園でホームレスの行列と出会ったことを書いたが、スマナサーラさんはその時に僕の胸の中で広がった感情を端的に表してくれたと思った。

 「健康は必要なのに、病気になったりする。食べ物は必要なのに、十分な食べ物がない人もいる。智慧は必要なのに、智慧がなくていろいろなトラブルを起こす人もいるのです。
 このような世界には、必要なものがなくて苦しんでいる人が、たくさんいるのです。
 そこで自分に必要なものが揃(そろ)っているならば、なんとかしてあげるのです。のどが渇いている人に飲み水を一杯あげる。身体が痛くて歩くのも大変な人には、肩を貸してあげる」

 「必要」と「欲しい」をきちんと区別していくよう心がけていこうと改めて強く思う。

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2008年5月21日水曜日

「生かされている」は殺人者への感謝の言葉


 久しぶりに本の話。
 本は相変わらず読んでいるけど、紹介するとなると、どこから手をつけていいのか悩む。
 先日、読んでいて「あ、そうなんだ~」とびっくりさせられることがあったのが、この

 アルボムッレ・スマナサーラ著「『やさしい』って、どういうこと?」

 スマナサーラさんはスリランカ仏教界の長老でお釈迦様のことをわかりやすく伝えている人。
 僕は彼の著書をたくさん読んでいるわけではないが、以前「怒らないこと」を読んで感銘を受けた。

 この本も100㌻ほどの薄いものだが随所に新たな発見があって楽しく読ませてもらった。

 タイトルにある「やさしい」ことは、とても大切なもののように思えるが、実は、“自分”が何かをしてもらったり、“自分”の言うことを聞いてもらったりしてくれる相手が「やさしい人」であったり、逆に「自分がやさしくしているのにうまくいかない、わかってくれない」と悩む人もいる。
 いずれも、自分の型にはまってくれる人が「やさしい」、そうじゃない人は「やさしくない」という評価・判断が一般的になり、「やさしさ」は“エゴ”そのものになっているのだ。

 スマナサーラさんは、「やさしさ」は必要不可欠なものだけどとしたうえで、
 他人に「やさしさ」を求めることが、「自分の要求を満たしてくれと、他人に頼むこと」である。つまり、やさしさは「他人を自分のために使用すること」なのである。だから、あってはならないと諭す。

 そこで、スマナサーラさんは、お釈迦様もそうおっしゃっているが、「私」と「他」の対立から、苦しみが生まれている。では、「私」がなくなれば苦しみはなくなる。「私が、私が」というエゴを捨てて、より客観的に、より普遍的に物事を見て、自分は無数の生命でできた「生命のネットワーク」の中のひとつとして今があると考えてはどうだろうかと問いかける。

 「無数の生命のなかで、この自分という一つの生命が、他人からやさしくされたいと思っている」
 「自分という生命のなかで、この自分という一つの生命が、他人からやさしくされたいと思っている」
 「この生命は、自分だけ独立して自由勝手に気ままに生きているのではない。他の生命の協力によって成り立っているのだ」

 このあとに、記されていた次の一文を読んで、僕はかなりびっくりさせられ、考えさせられることになった。

 「ここで私は、『生かされている』という単語は使いたくないのです。それは間違いの世界です。
 『生命は成り立っている』のです。無数の生命の協力によって、今ここにいる自分という生命が成り立っているのです。他の生命もまた、他の生命によって成り立っているのです」

 さらに、スマナサーラさんは次の章「『生かされている』は殺人者の感謝の言葉」で続ける。

 「どんな生命でも無数の生命の協力によって『成り立って』います。『生かされている』という言葉に私が反対なのは、この言葉を使うと相手側が『上』になるからです。『生かしておいてやろう』と言う誰かがいることになるからです。
 しかし『生かしておいてやろう』と言うなら、『殺したいところだけど、生かしておいてやろう』ということです。これは因果法則を知らない人の傲慢な言葉です。
 『私は神に生かされている』というなら、『神は私を殺したい』ということです。それで神に感謝するとは、どういう話でしょうか。
 そもそも一切の生命は対等であって、『生かしておいてやろう』と言う権利は誰にもないのです。



 スマナサーラさんはこの本の最後に、「エゴの治療法」として、
 まずは「私(自分)」の、次に「私の親しい人」の、そして「生きとし生けるもの」の、さらに「私の嫌いな人」の、最後に「私を嫌っている人」の幸せを願う言葉を記し、これを3回ずつ読んでほしいと述べて結んでいる。
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2008年5月20日火曜日

古伝神道式呼吸法「息長(おきなが)の法」で朝を始める

 この間、「気」の第一人者である藤平公一さんが「長生きは『長息』」と言っていると書いたら、
 古伝による「息長(おきなが)の法」という神道式呼吸法があることを知った。

 「古事記」「日本書紀」にも登場し、300余歳という驚くべき長寿をまっとうした武内宿禰(たけうちのしゅくね)も、仲哀(ちゅうあい)天皇の妃が息長帯比売(おきながのたらしひめ)と呼ばれ、神憑(かみがか)りを行えたのも、じつはこの息長の法を行っていたからだといわれている。

 「息長の法」とは、
 毎朝、日の出を時を待って、姿勢を正し、両手を親指を後に、他の4本は前になるように腰につける。
 その姿勢のまま、まず、身体を左の方に向けて4回、息を吐き出す。この時、大きく息を吐き出すことが重要である。
 次に身体を右の方に向けて大きく息を4回、吐き出す。
 次に太陽に向かい、”太陽の気を鼻から吸い込む”つもりで、ゆっくりと静かに長く自分が吸い込めるだけ吸い込む。
 次に口から息を静かに細く吐き出す。
 これを18回続ける。
 この方法は、野外で行っても家の中で行ってもよく、正座でしても、直立してすることもさしつかえないのだそうだ。
 曇りの日、雨の日には太陽の出る方角に向かって晴れた日と同じ気持ちで行う。
 このあと、左の掌(てのひら)を右の掌の上に重ねて、座っている場合は膝の上に、立ってる場合はへその前に置き、清浄な玉が載っていることを想像する。
 イメージしずらい場合は、水晶の玉のようなものを手の上に載せて、心持ちうつむき加減にして、その玉をしばらく見つめ、心の目で見るようにするといいそうだ。

 僕も始めたばかりだが、身体を左右に曲げて息を吐き出すと体内の悪気や疲れた気がすっと抜けていくような感じがする。
 4回とはいえ大きく息を吐き出すこともそうだし、そのあとのゆっくり細く長く息を吸い、吐き出す行為も慣れないとかなりきつい。

 300歳まで生きる勇気もないし、神憑りもしんどそうなので興味はないが、
 「呼吸を意識すること」
 「太陽の気をいただくこと」
 という前々から興味ある2点のことが取り入れられているという点に強くひかれた。
 徐々にできるようになればいいなと思っている。

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2008年5月18日日曜日

ホームレスと蓮の花



 休日の夕方、新宿公園の中を横断していると、人が大勢並んでいた。静かだから気がつかずにパッと目の前に現れた時は少し驚いた。
 公園横に出入り口が隣接している地下鉄・大江戸線の都庁前駅の方まで伸びているから200人以上は確実にいる。
 僕が公園を抜けようと思っていた出入り口にちょうど列の先頭が並んでいて、そこには炊き込みご飯のようなものが入ったカップが山のように積まれていた。
 ボランティアグループによってホームレスの人々への食事の支給が準備されていたのだ。

 寒さはすでに過ぎ去ったとはいえ、6時半過ぎの薄暮の中に行列をつくって並ぶ人々の中には20、30歳代だろうと思われる若い人の顔もたくさんあった。
 前後で会話をするわけでもなくほとんどが無表情で長蛇の列をつくっているホームレスの人々の横を抜けて赤信号の交差点に立っていると、なんだか胸の奥が苦しくなりこらえきれずに涙が流れた。

 幸も不幸もその人自身が決めることであり、安易な同情が解決を生まないばかりか、(不幸の)延長化、継続化を促すことにしかならないことをわかっていても、無表情で黙って列に並んでいた若い人々の顔を思うと自然に感情が揺さぶられた。
 今にあきらめ、納得してホームレスをやっている人もいるのかもしれないが、心ならずもそうした生活を送っている人もたくさんいるのではないかと思う。
 僕は同情抜きに、人は幸せになるために生まれてきたのだから、今よりもっと幸せになれます、豊かになれますと心の中で強く願った。

 その前の週に訪れた別の公園では、中央の泥沼に咲き始めたばかりの「蓮の花」を見た。
 仏教画等で、お釈迦様が台座として腰掛けられていることでも有名なこの花は、実際に見ると宗教的な荘厳さをたたえた美しさがある。
 蓮の花は濁った泥水の中でしか育たない。
 清い水ではあの美しい花を咲かせることはできないのだ。
 また、泥水が濁っていれば濁っているほど美しい花を咲かせるのだそうだ。
 だから、課題なのか試練なのか修行なのかはわからないが、そうした先にはその分だけ美しい花が開く日が必ず待っていると信じていいのである。

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2008年5月17日土曜日

「写経」は自分自身。埋める・流す・燃やすの処置が「供養」「浄化」を叶える



 般若心経を写し書く「写経」を書き始めてから5年ほどになる。
 1ヶ月ほど平気で書かないでいたりするのだからとてもじゃないがまじめな“書き人”とは言えない。
 それでも、途中でやめることなく続けてこられたのは、「写経に感謝している」からだと思う。
 よき人や物事との出会いの始まりは、この「写経」からだったという確信のようなものがある。
 人はそう簡単には変われないだろうから、“気づき”をたくさん得られるようになっただけなのかもしれないが、そのことによって僕は幾たびも救われた。

 般若心経は266文字で構成されており、表題の摩訶般若波羅密多心経の10字を加えてもわずか276文字を写し書くだけだが、「お釈迦様が伝えたかったすべてがここに込められている」という話も聞く。

 般若心経にまつわる話はいくつもあるのだろうが、僕が好きなひとつの物語がある。以前にも書いたことがあるが改めてご紹介したい。

 般若心経は、玄奘三蔵がインドから中国に持ってきたといわれる。玄蔵三蔵は「西遊記」の“三蔵法師”としてよく知られたお坊さんだ。
 三蔵法師はすばらしい徳を備え、しかも大変に魅力的なお坊さんだったらしく、立ち寄る国の王様が一度会うとずっと一緒に居たくなる。だからいろんな理由をつけては出国の邪魔をしようとする。
 このことが、次々と妖怪が登場しては三蔵法師一行の行く手をはばみ、孫悟空、沙悟浄(さごじょう)、猪八戒(ちょはっかい)がそれら妖怪を退治しながら脱出して旅を続けていくという今に伝わる物語になったそうだ。
 そんな魅力あふれる三蔵法師が旅の途中で身体中が化膿(かのう)し、至る所から膿(うみ)をたれ流した女に出会う。
 当時この病気は誰かにその膿を口で吸ってもらうと改善するという言い伝えがあった。だが、その女は身内がひとりもいないためお願いできる人は誰もおらず、偶然見かけた三蔵法師に膿を口で吸いだして欲しいとお願いしたというのだ。
 一緒に旅をする付き人がのけぞってしまうような姿の見も知らぬ女からの突然のお願いを、三蔵法師はなんの躊躇(ちゅうちょ)もなく「よろしいですよ」と快諾し、女の肌に口をつけて膿をズルリと吸い出した。
 するとその瞬間、その女は金色の光に包まれ、「観音様」に姿を変える。
 観音様は神界で三蔵法師のすばらしいうわさを聞き知って、自分の目で確かめたくてみたくなり、あえて難病の女に姿を替えて試練を与えてみたのだった。
 それに対して、まったく躊躇することもなく瞬時に救済の行為を行った三蔵法師に観音様は痛く感動し、
 「おまえはこれまでも大変な苦労をしてここまでたどり着いたことをわたしはよく知っている。
 ただし、これからはもっとつらく苦しい困難が待ちかまえているだろう。
 しかし、神はその人が越えられない困難を科すようなことは決してしない。
 おまえならその困難を乗り越えていける。
 でも、長い人生の中には『どうしても耐えられない』とくじけそうになることもあろう。
 その時はこの言葉を唱えなさい。さすれば、神の世界からわたくしが困難を乗り越えられるようおまえの元に瞬時にして後押ししにまいるから」
 と言った。
 この時、観音さまが“もしもの時のために唱えるよう三蔵法師に授けた言葉”が、「般若心経」だったのだ。

 僕は、この話を昨年知った。そして「写経(般若心経)に出会えてよかったな」とつくづく思った。
 そんなわけで今もこうして写経を続けていくことができている。

 「写経」を水から墨にすって筆で書いていくことは、命の波動である炭素6と水素1の波動が筆先を通じて半紙に書き記されていることになる。
 般若心経という形に替えて自分自身を書き記しているということになるらしい。

 このため、写経は書くことのすばらしさと合わせて、書いたもの<自分自身>をどう処置するかに大きな意義があり、願いごとがあればそれぞれの処置の仕方で効果という現れが導ける。
 自分自身である写経であるからこそ、それを使って、先祖や大切な人の供養、此岸(こがん=この世)の悩みや不安、願いなどの浄化、祈願ができるのだ。

 方法は「埋める」「流す」「燃やす」ことである。
 書いては埋め、書いては流し、書いては焼くことのみである。
 
 写経には作法と様式があるが、僕の書いている写経の作法は「水から墨を摺(す)って筆で書くこと」のみである。
 様式には大いなる意味がある。「19行×14字」にピタリと収まっている般若心経を手本としているのだ(ちなみに多くはそうなっていない)。
 僕も厳密なところまでは知識が至らず、参考としていただけるかどうか心許ないが、
 観世音菩薩(観音様)と深く関係があるらしい。
 観音様は人々からもっとも愛されている神様のひとりであるが、仏の世界では、末世に人々を救いに来るのも観音様といわれている。この世を救済に現れる観音様は「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、「33」の姿に変身して人々の前に現れると言い伝えられている。
 この「33」という数字は、「西国三十三所観音霊場」や「坂東三十三所観音霊場」、「三十三間堂」の由来にもなっているほどで、大変重要な意味を持つ数字なのである。
 写経の大家であり、この様式の大切さを伝えた橘香道(たちばなこうどう)先生によると、
 「小観世音である人の額を19(トコタチ)と言い、へそを14受(トヨウケ)と言う。このトコタチとトヨウケを合わせると33になる。
 一方、世界を見守る大日如来ともビルシャナともいう大観世音の頂点は国十九立(クニトコタチ)と言い、終点を十四雲野と言う。すなわち19と14を合わせて33になる。タテ14字詰めは14受であり、19行は19立である。すなわち写経の書式が観音の働きを示しているのである。それゆえに他の般若心経の様式では功を奏さないのである」と述べている。

 供養や浄化、お祓いをする方法は、墓や近くに墓がない人はお地蔵さん、関わる場所などで、それぞれの目的で処置する枚数などに違いがあるが、基本は先に述べた「埋める」「流す」「燃やす」である。

 
お役に立てるかどうかわからないが、この「観音様の様式」になっている般若心経の手本を添付しておきます(データで必要な方は上記のメールアドレスにご一報くださればすぐにお送りいたします)。
 用紙はそれぞれ近くの文具屋にもあるのかもしれませんが、僕は和紙100枚つづりでこの観音様様式の手本がついている用紙を取り寄せています。
 業者の方ではなく、先の橘香道先生の娘さんの榊原タカ子先生という方がお分けしてくれるので安心です。値段はひとつづり1500円だと思います。

 また、先祖や大切な人の供養の仕方や供養の言葉、病気、結婚、水子、商売、人間関係などの問題解決が示された「写経と人生」という書店では入手できない本もお願いすればまだ入手できるかもしれません。
 写経のこと、供養のことなど丁寧にご相談に応じていただけると思います。(良きことの縁結びと思い、連絡先を記しますが、榊原先生に誰の紹介か言わぬことは失礼ですので、もしご興味があり、連絡を取られる時には、神薗(かみぞの)からの紹介とおっしゃっていただければと思います)
 榊原タカ子先生
 住所:和歌山県和歌山市中之島783
 電話:073-433-8415
 FAX:073-433-8416
 
 よきご縁がありますよう心より祈ります。
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2008年5月16日金曜日

古神道に伝わる「願いごとを叶える諏訪大社・建御名方神の秘法」

 先日、古神道に古くから伝わるといわれる「願いを叶える秘法(呪文)」を教わった。
 秘詞を熱心に唱え、そのあと願望成就を祈願するだけである。交渉事の際も唱えれば都合よくいき、勝負ごとにも絶大な効果があるそうである。

 個人的には、この「秘法」とはちょっとした必然を感じる出会いがあった。
 休日、文章をまとめる手伝いを依頼されて、新宿の事務所に朝10時半に訪ねて1時半には作文を終え昼食をとり、前の夜に夢で見た神田明神を初めて訪れた。
 「誰かに呼ばれているのかな」と思ったが1時間ほど境内にいても声かけられるわけでもなく、導かれるわけでもないようなので、夏祭りに向けて公開されたばかりの神輿(みこし)を見たりしながら時間をつぶし帰ることにした。
 最寄りのお茶の水駅から1時間ほどかけて自宅近くの駅に着くと携帯の着信が鳴った。出ると、かなり焦った感じで「つくってもらった文章がパソコン上で消えてしまった」との連絡。しばらくファイルがどこかに保存されていないか探してもらったが、どこにも見あたらず消去されていることが確実の様子。翌日が提出の締め切り日ということなので、再び新宿まで引き戻すことになる。
 こんなことは滅多にないことなので、「これは何か良いことに出会えるのかもしれない」と思い、神経をいつもより敏感にしながら、楽しみにしていたらその世、出会えたのがこの「秘法」である。
 しかも、この秘法は、諏訪大社の建御名方神(たけみなかたのかみ)の秘法で、僕の氏神様である鹿児島の南方神社の祭神でもあり喜びはひとしおである。


「みなかたの 神の御力(みちから) 授かれば 祈らむことの、叶わぬはなし 野辺(のべ)に住む けだものまでも縁(えにし)あれば 暗き闇路(やみじ)も 迷わざらまし 我身守り給え 幸(さきわえ)給え


 以前に書いた霊がついたとしても「ツイてる!」の言葉で強烈な後押しに変わるという教えに通ずるところがありそうな呪文だが、かなり力があるらしい。上手に活用していただければと思う。

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2008年5月15日木曜日

竹炭と写経で“最強”の浄化グッズが完成!


 新野めぐみさんが作った「バラの竹炭」を取り寄せて、軽く洗ってからネットに入れて風呂に浮かべておく。
 竹酢液を数滴入れてしばらく時間を置いて、湯につかると、お湯が丸くなめらかになっているのがすぐにわかる。
 発砲スチールのケースを2つ用意して、普通の水と竹酢入りの水をそれぞれ入れておくと、竹酢入りの水を入れたケースの底のみ濡れてくるというは話を聞いたことがあるが、水のクラスターが小さくなる現象が起こっているのかもしれない。
 それに入浴時間は大体同じなのに身体の温まり具合が全然違う。身体の芯まで温まるのだ。
 最近は外気も暖かいのであやうくのぼせるところだった。「竹炭、おそるべし!」である。

 それと竹炭が届いたら、どうしてもつくりたいモノがあった。
 今までは小皿に粗塩を盛って玄関やトイレ、リビングに置いていたが、それを変更して、
 皿に粗塩と米を盛ってから、カゴの中に入れ、浄化が目的なので写経を6枚敷いて、その上に竹炭を写経が見えなくなるぐらいかぶせて「最強の浄化グッズ」を作った。

 写真はトイレに飾った一コマ。
 「うすさま明王様」にもきっと喜んでいただけているにちがいない。
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2008年5月14日水曜日

長生きは「長息」

 久しぶりに「気」の第一人者である藤平光一さんの著書を読み返す。
 なんとなくそう感じていたのだが、本を読みながら本来の呼吸を反復してみると、自分の呼吸がかなり“浅く”なっていることがわかる。

 藤平さんの呼吸法はなにも難しいことはない。
 肩を上下させたり、かかとを上げ下げして余計な力を抜いた「姿勢」ができると、本来の自然な呼吸ができるようになるという。
 だからまずはリラックスすることを薦めている。リラックスとは「落ち着いた状態」を言い、身体のすべての部分の重みが、その最下部におくことを「落ち着き」という。
 最下部とはへその下、恥骨の上あたりにある「臍下(せいか)丹田」にあるとされる。
 ここに力を入れるんではなく、「意識する」ことで落ち着きに近づける。

 それから口からはき出す。そして、鼻で吸う。
 いずれも無理をしない程度にゆっくり長くするよう心がける。

 人は赤ちゃんとしてオギャーと息を吐いて生まれ、息を吸って(引き取って)死ぬ。
 だから、生きている間は息を吐くこと、吐き切ることを心がけると自然に空気は自分の中に入ってくる。吐いた分だけが自分に入ってくるようになっている。
 これは「与えた分だけ(厳密には喜んでもらった分だけ)自分に入ってくる」という“宇宙の法則”そのものである。

 長生きは「長息」からきているのだと藤平さんは言う。
 また、ストレスによって毛細血管を縮め、スムーズに酸素を運べなくなっていることが現代病の原因になっている。だからこそ身体のすみずみまで酸素を行き渡らせる全身呼吸が必要なのだとうったえている。

 この気の呼吸ができるようになると、通常1分間に15~20回くらい呼吸するのが4回から5回の呼吸に変わってくる。

 唯一、食事の直後と入浴中は血液の循環が変化するので行わない方がいいらしいが、それ以外は歩いていても、座っていても、寝ていてもできるので、リラックスしてゆっくり長く口から息を吐き、鼻からゆっくりと深く吸うよう心がけてみるとストレス解消の一助になると思う。

 意識して呼吸するだけでも心身にとって大きな効果があるので時間を見つけてぜひお試しいただきたい。
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2008年5月13日火曜日

自然の力はすごい!免疫力アップを体感する「竹酢液」


 見ているだけで病気が治る事例もあるという、人を癒す不思議な写真「竹林の中のかぐや姫」(タイトルはないようなので勝手につけてしまいました)が縁で、写真をいただいた新野めぐみ氏の著書「雲の上に木を植える」を読んでみたところ、「竹炭(ちくたん)」、「竹酢液(ちくさくえき)」の数々の不思議な効果が記されており、感嘆した。

 寝たきりの人の床ずれがわずか数日で回復したり、アトピーが治ったり、まむしに噛まれても塗るだけで治癒したり、リュウマチ、肝硬変、白血病が改善したり、ガンが消えたり・・・、と信じられないような効果を「竹炭」、「竹酢液」がもたらした事例があげられているからだ。

 100%自然の産物である「竹炭」、「竹酢液」にこれほどの秘めたるパワーがあるとは思いもしなかった。
 竹の炭をつくるのに、燃料まで竹や自然素材を徹底して使う新野氏のこだわりも良き商品をつくる原動力になっているに違いない。

 自分でも試してみたくなり、5月の連休前に「竹炭」、「竹酢液」を注文してみた。

 新野さんの商品はネットでしか購入できないので3日ほどすると届いた。
 そして使い始めたわけだが、このことが僕にとってはこれまでの人生で経験したことのない不思議な体験をもたらした。

 その体験とは、笑われるかもしれないが、「早起き」になったのである。
 目覚めが抜群に爽快なのだ。
 飲み始めてから2週間ほどになるが、その間、一日も欠かさず朝5時半以降に起きたことはない。それぐらい早起きになった。
 夜もぐっすり眠れて、朝、目覚めた時にまったくといっていほど疲れが残っていないのだ。
 10年ぐらい確実に「若返った」ような感覚だ(といっても10年前も朝寝坊で早くは起きれなかったので、「生命波動」自体がグンと上がった感じです)。

 こんな変化は自分だけなのだろうかと思い、「検証」も兼ねて、ほぼ同時期に本を読み「竹酢液」を飲み始めた知人に体調の変化について訊ねてみた。
 竹酢液のその後の効果を訊ねると、今年60歳になる知人は開口一番、
 「ものすごく体調がいいんだよ。特に目覚めがよくて、毎日スッキリしている」とのこと。
 僕も自分の感想を伝えると、
 「あなたが10歳若返ったのなら、僕は20歳以上は若返ったね」
 と言って豪快に笑った。

 著書の中でも新野氏が書いているが、「竹酢液」を摂取することで免疫力が確実に向上しているのだろう。
 だからこそケガや病気が改善したり完治したりすることにもなるのだ。

 もうひとつ驚くのが、飲んでいると言っても極々少量であるという点だ。
 僕は約10㍑の水に竹酢液5、6滴しか入れていない。その水を飲んでいるだけだ。
 これは新野さんから「ホメオパシー効果なので、薄ければ薄いほど効く」と言われたことを実践しているに過ぎない。
 この飲み方なら2000円弱の商品だが1年ぐらいは保ちそうである。
 商売を優先しているなら「濃くして飲んだ方が効くよ」となるわけだが、このへんも僕が新野さんを信用できると思った理由である。

 いろいろな不思議な商品を見たり聞いたり、試したりもしてきたが、我が国に昔からある「炭」という自然物を生かした商品の不思議に出会い、喜び、驚かされるという貴重な体験をした。
 世の中は広いものだ。感謝、感謝である。

 ※これはあくまでも個人的な体験、身近な人たちの感想ですので、すべての人に同様の効果があるかどうかはわかりません。
 それをご理解のうえでご興味を持たれる方は以下で新野さんの著書の案内や「竹炭」「竹酢液」の商品をご覧になることができます。
http://www.takesumi.org/

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2008年5月12日月曜日

千葉地震警報・・・「ほぼ回避された・・・かな!?」

 14、15日に千葉で地震があるという未来予知を受けて、関東に住む身近な人には警戒しておくよう伝えておいたのだが、そのうちの親しい知人のひとりから午後3時半ごろ、「中国で大きな地震があったよ。千葉ではもうないね」と興奮気味に電話をもらった。

 それを聞いて僕も驚いた。
 妹から、その福岡の先生が
 「14、15日に千葉で地震が起こるかもしれない。ただし、中国で起こるようなことがあれば回避されるんでしょうが」と言っていたと聞かされていたからだ。

 僕はどこかで中国で地震はないと思っていたので、一瞬何を言われているのだろう、と考えてしまった。
 地震予知をしていただいた福岡の先生、「大変、恐れ入りました」。
 今週いっぱいは念のため警戒しておこうと思っているが、これで千葉ではほぼ地震はないということになりそう。

 でも、中国の地震の状況が心配だ。被害が最小限であるよう祈るばかりである。
 先に発生したミャンマーのサイクロンの被害も時を追うごとに想像以上に甚大なものであることが明らかになってきている。
 亡くなった方々の冥福を祈るとともに、被害に遭われた方々にはお悔やみ申し上げる。

 自然の前では人は無力である。自然の猛威がこれ以上広がらず、収まるよう心より願う。

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伝説の「お金に困らなくなる秘法」

 何百年も昔、いや、もしかしたら千数百年も昔からあったのかもしれない。
 中国から伝わる
 「お金に困らなくなる秘法」がある。
 今はすっかり忘れられてしまっているらしいが、先日、僕はそれを伝授(!?)された。
 本職の他に仕事やバイトを掛け持ちして・・・みたいな話ならここでわざわざ書く必要もない。

 これがかなりユニークな方法でしかも結構簡単!

 まず、これは「6月16日」に実行しなくてはならない。
 ちょうど1ヶ月ほど先に訪れるこの日限定の儀式なのだ。
 この日に100円玉16枚を用意する。計1600円だが「100円玉16枚」でなくてはいけないらしい。
 この「100円玉16枚」で食べ物を買う。食べ物だったら何でもいい。
 買ったら、それを「16歳の人」になにげなく食べてもらう。

 それだけである。

 なんだばかばかしいと言われてしまわれるかもしれないが、永楽銭のあった頃から伝わっていたことは確認されているらしい。大金持ちになりたい人には別の秘法があるが、これは贅沢はしないけど困らない生活ができる堅実な成果をもたらすらしい。

 「おもしろいかも~」と思う人は楽しみながらやって、ぜひ「お金に困らない一年」を過ごしてほしい。
 必要要件の中では、「16歳の人」を探すのにきっと困るのではないかと思い、直前ではなくあえて1ヶ月前にお伝えした。
 年齢的に高校1、2年生ぐらいだと思うが、僕の身の回りにも今のところいない。
 6月16日に、近くの高校の校門に立って、
 「あなたは16歳?これあげるけど、食べない?」と声をかけるわけにいかないし、もっか思案中である。

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2008年5月11日日曜日

健康のことばかり考えていると病気になりやすい

 写経の先生から、
 「ガンの保険に入っている人はガンになりやすい」
 という話を以前、聞いたことがあった。
 その時はよく理解できなかったが、今はその言っている意味がわかるような気がする。

 人の発する言葉、思いには物事を叶える、現実化させる強烈な力があると知ったからである。
 普段、口にしていること、思っていることが、現実化に向けて「引き寄せ」を始めるのである。

 現代はまさに「健康ブーム」で、健康食品、健康飲料、健康補助食品、健康器具など、さまざまな商品があり、健康に関する情報が氾濫(はんらん)している。
 先日も電車で横に座った60歳代の女性ふたりが健康食品や健康器具について話しているのが耳に入った。
 ただ、「これが良いのよね」という健康食品、器具の話は最初のほんのさわりだけで、あとは「どこが悪い」「あそこが悪い」という病気自慢のような話を延々としゃべり続けている。
 それを聞きながら、現代は、「健康ブーム」と言われているが実は
 「病気ブーム」
 なのかもしれないと思った。

 そうしたことに気づくと身近にある健康に関するチラシやパンフレットを読んでみると、「健康」に関する情報はほんの少しで大半は「病気」に関する記述ばかりである。
 これでは誰でも知らず知らずのうちに病気に詳しくなるだろう。
 知識が増えると自分が病気になるような気がしてきて、「病気にならないため」に保険として健康食品や器具にお金を使うようになる。

 本来は「健康」であるために思考し、行動すべきのところを、「病気」のために思考し、行動するようになると「病気」を引き寄せ始める。思考のエネルギーが現実化するようになるのだ。

 わかりやすく言えば、「病気」が「あの人のところに行けばいいんだ」と気づき、その人に向かって歩き始めるのである。

 だから、「老後の病気に備えてお金を貯めている」と言っている人は、ちゃんと老後にお金を使えるように病気になるし、
 「子供なんかの世話にはならない」と普段から言葉にしている人は、ちゃんと「子供なんか」の世話にはならずに、施設に入って人の世話になることが叶うのである。

 ガンになった人が医者に言うトップ5に入る言葉が、
 「自分は誰にも迷惑かけずに生きてきたのに」
 という言葉なのだそうだ。

 きっとこれまできちんと生きてこられた人なのだと思うが、何も迷惑をかけずに生きている人はやはりいないのである。
 「傲慢(ごうまん)」とまでは言わないがどこかにそんな思いはなかっただろうか。
 たとえ今まではそうだったとしても、これからもどういう形で迷惑をかけるようになるかわからないともいえる。誰もがそうである。

 今を「謙虚」に生きていく。それにつきるような気がする。

 それと、「病気」に気をつけるのではなく「健康」に気をつけるようにすること。
 同じように感じられるが、実はまったく異なることだし、自分の未来がまったく違う。

 「健康のこと」と「病気のこと」をきちんと使い分けることが大切になるわけだが、
 楽しいこと、うれしいこと、明るいことを考え、感謝の言葉を口にしていくことが健康への一番の近道だと思う。

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2008年5月10日土曜日

日航機墜落事故をまぬがれた友人

 田村珠芳さんの講演会で以前、1985年8月の日航機墜落事故の話が出たことがあった。
 この事故では520名の乗客が亡くなり、わずか4名が奇跡的に生き残った。

 また、事故に遭った123便では当日直前になってキャンセルした人が「10人」いたといわれている。

 珠芳さんはこの「10人」のうちの3人がどのように搭乗をキャンセルしたのかについて紹介した。

 Aさんは、ニューヨークから帰国していて羽田空港内を歩いていると数十年ぶりに仲の良かった同級生とばったりと出会う。懐かしい顔を前に次はいつ会えるかわからないからと思い、友人との久しぶりの邂逅を楽しむことにして、大阪行きの便をひとつ延ばした。

 Bさんは、羽田空港に向かう車中でひどい渋滞に巻き込まれてしまった。いらだちながら航空会社にキャンセルの連絡を入れることにした。

 Cさんは、商売で東京に来ていたが、奥さんから「銀行が融資のことで話があるのでどうしても午前中に会えるようして欲しいと言われている」と再三連絡が入り、仕方なく予定をすべてキャンセルして午前中の便で家路に着くことにした。

 3人はこのようにして、そこまでで終わっていても決しておかしくなかった人生を、再び先延ばしする機会を得ることになった。



 そんな話を聞いて1ヶ月ほど経ったある日、この「直前にキャンセルした10人」のうちの“語られていない7人”のひとりに直接話を聞く機会を得た(実際は、話を聞きながら7人のうちの「3人」であることが判明するのだが)。

 この日、日航機墜落事故のことを聞くために会ったわけでもなく、また初めての顔合わせだったわけでもなかった。
 ここ1年ほど仕事でつき合い、この日も新しい企画の話をしていたのだが、何かの拍子に飛行機事故の話題になり、この話を聞くことになった。

 名前は仮にKさんとしよう。

 Kさんは20年ほど前に、魚の買い付けのためにニュージーランドを訪れることになった。
 今でこそ輸入魚は当たり前だが、当時は先駆的な取り組みだったのでKさんは大いに意気込み、機中で期待に胸膨らませていた。
 しかし、このニュージーランドに向かう便がこの航空会社が始まって以来の大事故に遭遇してしまう。
 揺れが続き、おかしな飛び方をするなと思い、Kさんが窓の外を見るとプロペラがすでにまわっていなかった。
 自分自身に落ち着け落ち着けと言い聞かせていると、その間に他の乗客も気づいたようで、すぐに機中はパニック状態に陥った。
 緊急着陸させるとのアナウンスを残し、高度を下げ、空港らしきものが旅客機の窓から見えた時、そこには今まで見たことのない数の消防車が飛行機と併走していた。
 この異常な風景を見てKさんは「ああ、これまでか」という思いが頭をよぎったそうだ。

 しかし、旅客機は幸いなことに炎上することもなく見事胴体着陸を果たすことができた。
 白い消化剤がまき散らされた滑走路に自身の足で降り立った時、Kさんはこう決心し、神に誓ったという。

 「金輪際、死んでも飛行機には乗らない」

 ニュージーランドでの仕事を終えたKさんは、お願いしていた貨物船に乗ってアメリカに渡り、アメリカから再び船で日本に帰国した。

 それから歳月は流れる。
 Kさんが親しくしている四国の漁業会社と仕事を進めたいと同業の社長2人から相談を受け、Kさんは力になることを約束し、一緒に四国・徳島に同行することになった。
 せっかくだからということで、徳島の阿波踊りに合わせて出発することになった。
 チケットは相談を受けた社長が用意することになり、3人分を手配できたと報告に来た。
 「徳島の阿波踊りと重なってチケットを取るのは大変だったよ」
 と言いながらKさんに渡されたチケットは「航空チケット」だった。
 それを見たKさんは
 「オレは前々から死んでも飛行機には乗らないって言ってあるだろう。あんた達は飛行機で行ってくれ、オレは電車で行くから」とふたりに言い、チケットをつき返した。

 「この人にへそを曲げられたら大変だ」と思ったのか、直前にもかかわらず、せっかく入手にしたチケットをキャンセルし、電車で向かうことに変更した。

 3人は徳島に向けて電車の旅を始め、四国行きのフェリー乗り場で食事をすることにした。食堂に置かれているテレビを何気なく見ているとニュースで旅客機が行方不明になり世間が大騒ぎになっているらしいことがわかった。

 人ごとながら大変な事故だなと言い合いながら、ニュースでさらに詳しい情報を聞いていると、航空券をキャンセルした社長が神妙な表情でふたりに向かってこう言った。

 「おい、この飛行機は俺たちが乗ることになっていた飛行機だよ。おれがチケットをキャンセルした便だよ」


 今でも毎年欠かさず、一緒に徳島に旅したふたりからKさんにはお礼の品物が届くそうだ。

 僕がKさんとの話で印象深かったのは、
 Kさんが僕に話したかったことは自分の命が助かったということではなく、別のところにあったということがわかったからである。

 墜落した123便は満席だった。
 Kさんらがキャンセルした席には、キャンセルを待っていた誰かが確実に入れ替わる形で座り、そして入れ替わる形で亡くなっていった。

 Kさんは、この日になると、自分が会ったことも、もちろん名前も知らない自分の身代わりになって亡くなった誰かのことを毎年思い、追悼の思いを抱きながら手を合わせているそうだ。

 「生かされていることに感謝する」

 そのことを改めて実感させられる機会となった。

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2008年5月9日金曜日

見えないものが“見える”人は、結構ツライだろうなと思う

 昨夜は地震がなかったのでぐっすりと眠ることができて良かったなと思っていたら、今朝、通勤時に神奈川で震度3の地震が発生したことを知った。
 ここにきて、なんだか関東地方が騒がしい。

 昨夜も故郷にいる妹から電話をもらい、地震予知の追加情報として
 「来週の14、15日が危険日で、それを過ぎれば『回避』できる」という知らせを受けた。
 福岡の先生は、「信じる人限定」でお伝えしてくれているようだが、こうした「特別な情報」を教えていただけることは大変ありがたいことだと思っている。

 その一方で、こうした普通の人が見えないことが“見える人”は実はとっても大変だろうなといつも僕は思っている。


 ちまたに「足裏マッサージ」という商売がある。
 お客さんの足をお湯や蒸しタオルで温めて指や器具でほぐして疲れを取ってくれるシステムで、僕もずいぶん前に一度行ったことがある。
 その頃は知らなかったのだが、足裏には気の出入口がある。だから、ここが詰まってしまうと気がまわらなくなり、いろんな病気の原因になる。
 足裏は足裏なりに重要な役割を担っているのだ。

 足裏といえば足が臭い人や水虫の人が重篤な病気になり、病院に長く入院していると、ある日、足が無臭になったり、水虫が治り始めることがあるそうだ。
 それを見た看護師さんは、「ああ、もうすぐお迎えが来るんだなとわかる」という話を以前、聞いたことがある。

 足裏マッサージに話を戻すが、マッサージをする人は、結構大変らしい。
 人のたまっている悪い気に触れたり、浴びたりする機会が多いため、健康不調を起こしてしまうからだ。
 でも、理由がわからないケースが多いため「なんだか、うちの店は従業員がいつかないなー、また面接するかー」となる。
 一番大切なことは悪い気の影響を受けないようにすること、受けても浄化する方法を教えてあげることなのである。

 僕はここ数年は、ずっと体の調子がいいのでお邪魔していないが、東京の東池袋にさまざまな病気を患者の体に触れずに改善させたり、完治させる不思議な整体の先生がいる。
 その先生に「先生、患者さんの悪い気を受けることはないんですか」と訊ねたことがあるが、
「もちろん受けます。だいたい5%ぐらいずつ病気の気が自分に残っているようです」と先生は教えてくれた。
 次いでその対処を聞いてみると
 「ひとり患者さんを診るたびに、毎回、ついた病気の気を祓(はら)うようにしています」
 と説明していた。

 今回のように見えないものが“見える”人も一緒だと思う。
 「未来予知」の言葉を発すると、人は次にその(予知の)通りになるように願ってしまうものである。
 これは「良いこと」「悪いこと」を問わずそうなる。

 ということは、悪い予知を発してしまった場合は、その悪いことが叶え、起これ」と念じてしまうことになる。
 これは思考、言葉の中でも最も悪いことであり、何に対して悪いかというと自分に対して最も悪く、自分を呪う行為になってしまうのである。

 人のためにやっているのに自分の心身を痛める機会に、特殊な能力がある人は普通の人の何倍、何十倍も遭遇する。

 能力のある人々は、そうした邪気、悪気を祓う術(すべ)を同時に持っておくことが絶対に必要となる。

 何もないことを祈りつつ、できることをやって眠り、朝日とともに起きてまたできることをやることの連続が人生の僕などは、そうした力の恩恵を受けてありがたいなと思うものの、「きっと、それはそれで大変なんだろうなー」と勝手な心配をしてしまうのである。

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2008年5月8日木曜日

地震の予知が当たった!?

 昨日はちょっと不思議なことがあった。

 昼過ぎに鹿児島にいる妹から電話があり、「千葉で来週、そこそこ大きな地震があるみたいなの。備えあれば憂いなしというし、一応気をつけておいてね」と言うことだった。
 未来に起こるいろんな出来事を感知できる福岡に住み知人から注意を促す連絡が入ったらしい。

 僕も過去にそうした未来に起こることを察知できるという人(「見える」というようなスピリチュアルな世界の人)に何人か出会ったことがある。
 その人々の未来予想を聞いてみて僕なりに得た結論は、
 「出来事は当たることがある。ただし、日時は容易には当たらない」
 ということだった。

 なぜなら、「未来」という時間的概念は人間がつくりだしたもので、実際には未来も今この瞬間に「同居」しているからだ。だから今が変わると未来も自ずと変わっていく。

 「まもなく地震が起こる」という予知通りに地震は起こることになったとしても、その日時は3秒後かもしれないし、300年後からしれないし、3万年後かもしれないということがよくあるのだ。
 人間が日時まで判読するのはまさしく至難の技だといえる(もちろん、かなりの確率で日時を当てられる人もいます)。

 そう判ってはいるものの、妹がわざわざ知らせてくれたことであるし、そういう情報を直接聞くことになった「必然」の意味は大切であろうと考えて、今夜から一週間ほどは棚などのない比較的安全な部屋に子供たちを寝かすことにした。

 そうしたら、その夜(昨夜)早速の地震発生である。
 ここ数年でもかなり大きく揺れた地震だった。
 揺れた瞬間、僕はパッと起き上がって子供らをかばいながら、いくらか安心な部屋にいたことにホッとするとともに、頭の中では「地震予知」が当たったことへの驚きで一杯になった。

 朝日が昇り、震源が茨城だと知ったので、僕の中では聞かずとも無事を確信しているが、すぐに赤荻先生にメールを入れる。

 それから妹に電話をすると「ほんとに来たね~」と本人も早速の的中にかなりびっくりした様子。
 「でも、先生は地震が起こるところを関東とは言わずに“千葉”と言っていたから来週までは念のために気をつけておいて」と言われ、僕も素直にそうしようと答える。

 この地震予知にはもうひとつの情報があり、来年早々に関西でかなり大きな地震があるということである。
 以前、このブログで紹介した田村珠芳さんも関西での大きな地震の発生を予測していたので符合することになりその点はとても気になっている。ひとつのシンクロであると思った。

 その一方で東京では直下型の地震はもう起こらないといわれている。
 日本にはそうした大被害をもたらすとされる地震の発生を回避するために動いている3、4つのグループがあり、東京での回避の処置はすでに終えたそうだ。

 人の人生も自然もすべてそうだが、「作用、反作用の法則」が働いている。
 どこかで不自然に回避するとその分が別のところに反作用として現れるのである。

 自然は時として傲慢になりがちな人類に対して、「それではいけませんよ、謙虚になりなさい」と“気づき”を促すために天災をもたらすものである。

 大地震をはじめとする天災が自然の流れとして回避されるようになり、人々が厄災なく、無事でいられるようひたすら祈り願うのみである。

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2008年5月7日水曜日

「立夏」の日付間違えました。お詫びと訂正です

 今朝更新のブログで
 「暦のうえでは6日の『立夏』が過ぎて夏入り」と書いておりますが、
 「暦のうえでは5日の『立夏』が過ぎて夏入り」の間違いです。
 今年は5日だったんですね(本文も直しておきました)。
 特にすでにご覧になっていただいた方、本当にすみません。
 訂正してお詫び申し上げます。

弁天様を守る猫



 今年の関東地方のゴールデンウィークの天気はずっと「雨のち曇り」といった感じだった。
 人様はいろいろ言いたいことがあるみたいだけど、草花、若葉たちはとっても嬉しそうだった。
 暦のうえでは5日の「立夏」を過ぎて夏入り。
 最終日となる7日はまさに「洗濯3回以上約束します!」という公約が書かれた横断幕がクルクルと天 から降りてくるような初夏を思わせる元気一杯の日差しに満たされた良く晴れた一日だった。

 千葉の袖ヶ浦公園に行く。
 鮮やかな新緑に映えて、歩く人々の顔が嬉しげで、生き生きとしてみえる。

 公園内の池の横に「袖ヶ浦弁天」を見つける。
 遠目から見ても小さくかわいい祠(ほこら)で、鳥居をくぐってお詣りしようと近づくと賽銭箱の横になにかがある。
 近づくと生き物だった。
 猫が寝ているのだ。
 目の前まで行っても逃げようとも起きようともしない。
 暖かな日を浴びながら悠然と寝ている。
 賽銭を入れて、小さな鈴を静かに鳴らすとようやく薄目をあけてこちらを見た。
 そして、またすぐに目をつぶってしまう。
 お詣りをしている間も平然と寝ているその姿が愛らしくあまりにおかしいので、
 「お勤めご苦労様です」
 と声をかけると、再び薄目をあけて無言でちらりとこちらを見た。
 そして、またすぐにお日様が与えてくれたひだまりの小さな池の中での眠りに戻っていった。

2008年5月5日月曜日

「さようなら、さようなら、さようなら」

 先日、都内で行われた講演会で「サザエさん」のマスオさんや「アンパンマン」のジャムおじさんなどの声を担当しているベテラン声優の増岡弘さんのことで心に残る話を聞くことができた。

 当日、講師を務めた人は数年前から増岡さんと家族ぐるみのおつき合いをしていて、最近、一緒に食事をしながら増岡さんにこんな質問をした。

 「声優の世界を夢見て毎年多くの若者がこの世界に足を踏み入れているみたいだけど、どういう人が大成するんですか?そういうことってわかるものなんですか?」

 声優として長年のキャリアを積み多くの声優と接し、現在は専門学校の講師も務めている増岡さんは自分なりに確実にわかる方法があると答えたそうだ。

 こっそりと教えてくれたその方法とは

 「さようなら・・・、さようなら・・・、さようなら」と三回言ってもらうというものだった。

 「さようなら」

 「さようなら」

 「さようなら」

 すると、三回目の「さようなら」を口にした時、涙しながら言葉を発する若者が時としている。

 その若者がこの世界で生き残り、大成すると増岡さんは教えてくれたそうだ。


 確かに、歳を重ねるということは「さようなら」を積み重ねていくことなのかと思う時がある。
 そうした意味では若き時には「さようなら」をさほど知らないのかしれない。
 それでも中には、「さようなら」を知らなくても自分のこととして“感じる”ことができる豊かな感受性を持った若者がいる。
 特に多くの人に感動を与える仕事に就く人にはそうした人並はずれた瑞々しい感性が必要不可欠なのであろう。



 できたら、自分ひとりでいる時に、心を込めて、ゆっくりと声に出して言ってみてほしい。

 「さようなら・・・」

 「さようなら・・・」

 「さようなら・・・」

 
 言い終えた時に、自分の中にどんな情景が、顔が、出来事が広がるのか心すませてみるのも、たまにはいいかもしれない。

2008年5月4日日曜日

観音様の真言

 僕が密かに憧れているというか、いつかやってみたいなと思っていることがある。

 それは、「観音様巡り」、そして「お遍路」である。

 観音霊場(札所)の代表的なものとしては、「西国33観音」、「坂東33観音」と「秩父34観音」があり、あわせて「日本百番観音」と称されている。
 33という数は、観音様が33のお姿に変化し人々を救うとされる予言のことを意味している。
 「三十三間堂」もこの数から名づけられている。秩父の札所は百観音に数えるため33観音ではなく、34観音とされた。

 お遍路は言わずとしれた四国88カ所巡りで、3ヶ月ほどかかるらしいが、車遍路ではない“歩き遍路”に憧れる。

 いずれも、時間とお金、周囲の理解、そして心のゆとりに恵まれないとなかなかそう簡単には叶わない。

 だからこそお願い事は特になく、
 「こうして訪れることができたことに感謝します」
 と詣る参拝者の気持ちがよくわかる。

 焦らずに、「呼ばれる時」がやってくるのを物心両面で準備を整え、楽しみながら待つこととしよう。

 まずは、これまで同様、マイペースで身近な観音様をコツコツと訪ねていこうと思う。

 観音様の真言をここに記しておきます。
 僕はさまざまな神様のご真言を手帳に記してあります。ふと立ち寄ってお詣りする時に、思い出すのに便利です。

 観音様は「6観音」とも「7観音」とも言われます。
 ここには7観音の真言を記しておきます。

 聖(しょう)観音
 おん あろりきや そわか
 
 十一観音
 おん ろけいじばら きりく そわか

 如意輪観音
 おん ばらだ はんどめい うん
 (おん はんどま しんだ まに じんばら そわか)

 馬頭観音
 おん あみりと どはんば うん はった

 准胝(じゅんてい)観音
 おん しゃれい しゃれい そんでい そわか
 
 千手観音
 おん ばさら だるま きりく
 
 不空羂索(ふくうけんじゃく)観音
 おん あぼきゃ びじゃしや うん はった

 詣る作法は自由ですが、僕の詣り方は、真言3回、住所、名前、そして「ありがとうございます」です。

2008年5月3日土曜日

人の「宿命」は決まっているけれど

 長崎に知る人ぞ知る喫茶店がある。
 「あんでるせん」という店である。
 そこのマスターは訪れた客にマジックを見せてくれるのだが、それが単なるマジックの枠を超えて「超能力」なのではないかと思うほどのスゴい!技なのだそうだ。

 2年ほど前にこの手の話が好きな知人から初めて聞いた。聞いただけで僕は行ったことはない。
 そして、行ってきたという別の人から先週、話を聞きながら「あんでるせん」のマスターは大切な役割を担われているんだな、と気づかされた。

 同じ情報でも受け取る側が変わると感じる点、見える点も変わる。2年間とは別の感覚で話を聞けたことは僕自身、嬉しかった。
 今回の話でもっとも興味深かったのは、
 お客さん手のひらの上に置いた丸めたティッシュが動きだし重さを増しながら生卵になったり、バラバラの絵柄のルービックキューブがポンと投げ上げ、手元に落ちてくる間に6面の色がそろっていたとか、持ち込んだ幼児の手首ほどもある鉄棒を瞬時にU字に曲げたといったことではなかった(これはこれでスゴいことですけどね)。

 今回、話をしてくれた人は、「あんでるせん」のことを知人から聞いて、すぐに行ってみたくなり福岡からバイクに飛び乗り、長崎に向かった。
 ところが、到着した店の玄関には「定休日」の看板が出ていた。
 「遠くからわざわざバイクで来たのに、なんだぁ、ツイてないな~」とガッカリして立ちつくしていると、定休日の看板の下に手書きの張り紙があるのに気づいた。
 近づき、それを読むと、自分の名前がフルネームから始まる以下の文面が記されており、読み終えて背筋に寒気が走るほど驚いたそうだ。

 「○○○○さん(フルネーム)、せっかく来ていただいたのに、本日は定休日です。ごめんなさい。またのお越しをお待ちしております」


 以前に聞いた話も、「あんでるせん」のマスターは、マジックの終盤で、お客さんに名前と思いついた絵を描いてもらい、みんなに見せる。
 マスターは自分の財布の中からあらかじめ自分で絵を描いておいた紙を取り出して広げてみんなに見せるのだが、構図、題材ともにほとんど同じ絵が描かれている。名前もその描いた人の名前が書かれている、ということをやってくれるそうだ。

 「生まれた時からこの日に『あんでるせん』に来ることになっていたんですよ」とマスターは来てくれるお客さんに話をしているそうだ。そういうわけだから、もちろん「あんでるせん」に来て、どんな絵を描くかも決まっている。

 マスターは部屋の机の引き出しの中に「未来日記」を持っていて、何年何月何日、何時にお客として誰が来るのかあらかじめ知っているのかもしれない、と僕は勝手な想像をする。

 マジックで訪れた人々に楽しんでもらうことはもちろんだが、不思議現象を目の前で見せながら、人の一生の不思議、可能性、意義について伝えたいのだと思う。

 そのひとつが、
 「人の宿命は決まっている」
 ということなのだろう。



 「宿命」は確かに変えられないものらしい。
 しかし、「運命」は自分自身で変えることができる。

 それにはちょっとしたコツがあり、
 「運命」というだけあって運ばれてくるモノらしい。

 そして、運命を運んでくる“配達人”は、人だといわれている。

 だから人を大切にすることが「運命を変える」、「運命を開く」コツだ。

 もうひと言つけ加えておくと、「人」とは目の前の「人」のことである。
 自分が好きな人、自分が気に入っている人、自分が憧れている人・・・など、自分の好悪や嗜好、都合で決められた人ではない。

 顔がイヤ、性格がイヤ、趣味がイヤ、考え方がイヤ・・・、そんな人たちもすべて含めて
 「目の前にいる人」が“配達人”である。

 自分の運命を変えて、開いてくれる“運命の人”がどんな姿で、どんな方法で、どんな内容のことを持ってきてくれるのかと考えると、どんな“人”でも愛おしくなりますよ。

2008年5月2日金曜日

「ツイてる!」の言葉が運を呼び込む“本当の理由”

 今日は「霊」の話。

 この手の話が苦手な人はここでパスしてください。

 ただ、僕はこの霊に関する話を聞いた時、それこそ頭の上にピシッと雷が落ちたぐらいのショックを受けた。今年一番だったかもしれない。
 ついでに今まで体験したことのないぐらいの数の「霊」が僕のまわりに寄ってきたけれど・・・

 人は好むと好まざるに関わらず、知らず知らずのうちに「霊」の影響を受けている。
 自然霊、未練を残して昇華できずにこの世に残り、さまよっている霊はそれこそ身のまわりにウヨウヨいる。

 僕は清めのための粗塩をいつもカバンに入れて持ち歩いている。そうするようになってもう7年ぐらいになる。
 それまで僕は、自分が「霊媒体質」なんてまったく思っていなかった。最初はどこか身体か心の病気なのかと思っていた。病院にも通ったりもした。
 でも、これは前にも書いたと思うがちょっとした体験で気づき、塩をふったり、言葉を発したりすることで体調が短時間に改善することがわかり、一般的な病気ではないということに気づかされた。
 だから僕は、実際には多くの人々が霊による影響を受けているものの、それに気づかず心身の病気だと思っている事例が無数にあると思っている。

 ちょっと軽いめまいがしたり、身体がだるくなったり、呼吸が浅くなったり、肌寒くて力が抜けたようになったり、気分が落ち込んだり、ふさいだり・・・・といった症状に襲われると、風邪や高低血圧、更年期障害、躁鬱病などの病気だと思い、病院に行く。
 でも何度も通うがなかなかよくならない。そしてズルズルと長期化、悪化し、家族までなんらかの病になっていく・・・というパターンである。

 こうしたパターンは「大昔」からある。だから知る人は知っているがどこの町にも憑(つ)いた霊をはらってくれる専門職の人がいる。「霊をはらうことを職業にしている人」がいるのである。
 お寺や神社もそうした機能を持っていたはずだが、大っぴらにはそんなことはしなくなった。
 最近までよくテレビに出ていた占いが良く当たるといわれる女性に霊をとってもらうようお願いすると300万円は最低請求されると頼んだ人から聞いたことがある。

 でも、こうした「専門職」の人のところに訪ねていく時には、すでに霊の「災い」はかなり進行して、たぶん生きるか死ぬかのところまで追い込まれている場合が多い。

 病気と同様、始まりに早く気づけば改善・回復は早く、あら塩を身体にかけていくだけで気分がスッと楽になる。携帯している塩を渡し、かけてあげるだけで数分で改善する事例を数え切れないほど目の前で見てきている。


 前置きが長くなってしまった。本題に入る。
 僕が先日聞いた話はこんな話だ。
 この世に未練を残した成仏できず昇華できないさまよえる霊がもっとも数多くいる場所のひとつは「水辺」なのだそうだ。
 池や湖、海なら潮の流れが止まりゴミがプカプカ浮いているような場所。
 そんなところには霊がそれこそウヨウヨといる。
 なぜ、水辺にいるのかというと、人の魂には「水に癒される」、「水にひかれる」という傾向があるのだそうだ。
 だから、人気のリゾート地の多くが水辺にある。水辺にマンションができるとすぐに完売する。これは生きている人も、死んだけど半分思いを残して成仏できない霊も一緒らしい。
 夜中、水辺に集まり、水辺にうつる夜の淡い灯りをじっと眺めている霊の姿は考えるとなんだか切ない。

 僕は、霊が憑かない人はほとんどいないと思っている。
 憑いた時に感じる人と感じない人がいるだけである。
 憑いた時にはいろんな自覚症状がある。ズン、なのかドンなのかは人それぞれだが身体が重くなる。それに、これも霊の加減によるが気持ち悪くなる。目が回るような感じもあるし、胸がムカムカすることもあるし、脈が速くなったり、肌寒くなったりもする。
 ここにあげたのはほとんど自分の感覚だが、人に聞いてみてもだいたいこのような感じらしい。

 だから、霊が憑くと気分がすぐれなくなる。時にはすごく気分が悪く、具合も悪くなる。
 すると人はこんな言葉を口にする
 「疲れた(憑かれた)・・・」
 これは冗談ではなく、「疲れた」「だるい」「まいった」「具合が悪い」「気分がすぐれない」「病気かもしれない」「死にそう」・・・ネガティブな言葉ばかりが口からついて出る。

 実はこれが自分の、そして家族の「不幸」の始まりなのである。

 なぜなら、自然霊、未練を残し、成仏できずにこの世をさまよっている霊の多くは
 「強い意志や方向性を持っていない存在」であり、
 このため、憑いた人が求める意志や方向性を応援するようになる。憑いた人の「願いを叶える」「現実化」するためのお手伝いをするようになるのである。

 憑かれた人が、「疲れた」「だるい」「まいった」「具合が悪い」「気分がすぐれない」「病気かもしれない」「死にそう」と言葉にすると、憑いた霊はそれを叶え、現実化するよう、応援し後押しをし始めるのである。
 だからその憑かれた人は自分の言葉通り、疲れ、病気になり、死にそうになっていくのである。

 霊がどのような存在でどのような性格を持っているのかその仕組みを知らない限り、人々は霊に憑かれた時のあの不快感のままを言葉にし、そして不幸になっていく。
 こういった繰り返しが、今まで何百年、何千年と続いてきたんだろうと僕は思う。

 それでは、どうすればいいのか。もうお判りになったことと思う。

 霊に憑かれた時には
 「ツイている!」と言えばいいのである。
 霊に取り憑かれたのか取り憑かれていないのかわからない人でも普段から「ツイている!」のような明るく前向きで幸せを呼ぶポジティブな言葉を口にしていればいいのである。
 そうすると自然霊やこの世で昇華できずにさまよう霊が、その明るく、楽しく、嬉しく、幸せの言葉がそのまま叶うように、現実化するように一所懸命お手伝いしてくれるのである。

 霊は決して悪い意志を持ち、不幸に向かうよう導いていく「恐ろしき、悪意に満ちた存在」ではないのである。
 それを受け取った人が自らの意志と言葉でそれを叶えていっているに過ぎないということをわかっていただけたと思う。

 僕は様々なすばらしき感謝の縁によって、言葉の持つ大切さを教えられ、気づかされ、自分なりに実践してきた。
 今回、その裏側にある深淵な仕組みについて教えられ、大きな衝撃を受けるとともに、長年自分の中で反問してきた様々な疑問の解決にもつながった。

 霊に憑かれたとしても怖がる必要もないし、霊媒師にお金を払って取ってもらう必要もない。
 普段から良き言葉を口にし、良き思いを抱くよう心がけていけば、何も恐れることはないのである。
 僕も携帯している清めに使っていた粗塩をカバンから取り出し、食卓に置くことにした。


 最後に、この話を聞いている間、僕は、かつて経験のないヘビーな憑依(ひょうい)に見舞われた。
 話してくれている人の力が強くて強烈な「引き寄せ」がかかったためだと思う。
 少なくとも20、30体はまとめてくっついてきたような異常な身体の重みと気持ちの悪さにあやうくその場でイスから転げ落ちそうになった。
 隣に座る友人がびっしょりと汗をかき、青ざめた顔をしている僕に気づき、
 「おい、大丈夫か」と声をかけてきた。

 僕は声を出すのもおぼつかないような状態だったが、なんとかこう答えた。

 「ツイてる・・・・」