2008年3月7日金曜日

「キリストの言葉」が教えてくれる願いごとを叶える方法

 人類の歴史は「天才」と呼ばれる人を数多く出現させているが、その中には「悟り人(びと)」としての天才もまた多数いる。
 この代表格といえば、やはり釈迦とキリストであろう。
 宗教に熱心な人に聞かれたら怒られるかもしれないが、僕もこのふたりを偉大な宗教者というよりも、この世の仕組みや人がこの世(此岸)にやってきた意味や理由(わけ)がなんであるかをすっかり見抜いた天才であり、まさに超人であると考えている。
 当然、頭脳明晰であったのだろうが、それ以上に出会う人を大切するその愛情深き人柄(!?)に強烈な魅力を感じる。

 ふたりには共通点は多いが、自分で文章を書いたり、本を書いたりしていないという点も一緒である。現在、残されている彼らの言葉といわれるものはすべて生前に近くにいた人々が書き残し、伝えたものである。だから当人たちは誰かになにかをなにが何でも残そう、とは思っていなかったのかもしれない。「その時をその時なりに喜びをもって生きた」のではないかと僕にはみえる。
 「大きな組織をつくりなさい」とか、「組織の維持運営には莫大な費用がかかるのでお金を集めなさい」とか、「時には武器を持って戦うこともよしとする」とか「信じないと地獄に堕ちるぞ」とか、そうしたことを奨励したり、そそのかしたり、強制したりすることなど思いつきもしないような人たちであった。

 そもそも、キリストはキリスト教徒ではないし、仏陀も仏教徒ではない。
 ひとりの「悟り人」である。
 
 釈迦についてはこのブログで書く機会が多いが、今回はキリストの言葉の中から僕がいろんな機会で 考えさせられることの多い言葉を少しだけ紹介したい。


 ヨハネによる福音書の冒頭には次のような有名な言葉がある。
 「初めに言葉ありき。
 言葉は神と共にあり。
 言葉は神なりき。
 この言葉は初めに神と共にあり。
 すべてのものは、これにより出来た。出来たもののうち、ひとつとしてこれによらぬものはなし」

 このブログではタイトルのとおり、「言葉」というもの、「言霊(ことだま)」の力の不思議、魅力を取り上げることが多いのだが、
 キリストはこの「言葉」がすべての物事を担っている、とヨハネ福音書の冒頭でまず述べているのだ。
 「初めに言葉ありき」とは釈迦もまた教えとした言葉である。
 2000年以上前に現存した東西の天才が共通して
 「『言葉』というものがもっとも大切である」といみじくも言っているのである。

 言葉が人の人生を大きく左右することは科学的にもようやく解明されてはじめている。
 心理学者マクセル・マルツは
 「自分が物事を解釈したように感情がつくられ、脳はその感情を読み取り、自らの人生にそれを表現していく」と説明している。
 これはその人が日常、何気なく発している言葉や考え方を、人間内部で言葉の影響を最も受けやすい自律神経が覚えていて、判断や行動をする際にその影響が顕著に現れてくるということを指摘しているのだ。

 良き言葉をあやつる(使う)人は、良きことに無意識に反応するので、その結果、良きことが目の前に現れる。

 悪き言葉をあやつる(使う)人は、悪きことに無意識に反応するので、その結果、悪きことが目に前に現れる。

 今年、精神世界のジャンルで人気の「引き寄せの法則」関連本も同様のことをまとめたものである。
 「類は友を呼ぶ」という“類友(るいとも)の法則”も他人の力や他人の責任ではなく、自分が持つ言葉、感情の習慣がそれに似た人を引き寄せるということを意味している。
 人を引き寄せるばかりではなく、その多くは現象を引き寄せるので「なんでこんなに良いことばかり続くんだろう、ほんとにしあわせ~、ありがとう!」といった現象ばかり続く人もいれば、

 「なんでこんなに悪いことばっか、続くんだ、馬鹿野郎!、オレの人生最悪!アッタマくる!」といった現象ばかり続く人もいる。
 これも自らが引き寄せているというわけ。

 キリストには口癖があることが新約聖書を読むとわかる。
 どんな場面でもキリストはこう言っている。きっと天を仰ぎながら。

 「私の願いをいつも聞いて下さる父よ、感謝します」と。

 僕はこの言葉を知った時、「キリストの願いごとはどんなことでも叶ったんだなぁ、すごい」と妙に感心してしまった。それと同時に、キリストは願いごとを叶える方法を知っていたんだ、とふと思った。
 人のために生きた人だから(本当は自分のために生き、人のために<も>生きた人)、あらゆるものを自分だけのものとせず人々に与えてくれている。

 だから、その「願いごとを叶える方法」もキリストは教えてくれている。
 なのに、今ではその方法が広く伝わっていないというのが逆に不思議で、なんだか他意を感じるが、まあ、そんな意地悪な「他意」のことは隅に置いておいて、

 叶える方法についてキリストは、

 「そこであなた方に言うが、なんでも祈り求めることは、すでに叶えられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(「マルコによる福音書)第11章24節」と述べている。

 これは、もうこのブログでは幾度もご紹介しているとおり、
 「<叶えられたと信じて>過去完了形+感謝しま~す!」と言葉にする
 に通じているように思う。
<そうすれば、そのとおりになるであろう>
 なのです。

 とってもシンプルな願い方だけど、
 「祈る場合、異邦人のようにくどくど祈るな」(「マタイによる福音書」第6章7節)とあるように、「願いごとを叶える方法」は特別な人だけができるのではなく、誰にもできるようにとってもわかりやすくなっているはずだから。

 「まずは良き言葉を使いましょう」ということにひとりでもいいから身近な人に気づいてほしいと思う。
 僕は霊的人間ではないのではっきりとはわからないけど、少なくとも身の回りで願いごとを叶える、実現する力が強まってきているように感じるし、「良きこと」、「悪しきこと」の現れがとっても顕著になっていっているように思う。どちからに大きく振られやすい状況、環境になってきているようなので念頭において注意することは大切だと思う。

 でないと、こんなこともキリストは言っている。
 「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで、取り上げられるであろう」(「ルカによる福音書」第8章18節)

 それはあまりに怖すぎる・・・・・

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